普段、何げない会話の中でも、相手に十分伝わらないことが多かった私。仕事でも要点を伝えきれずモヤモヤした気持ちになることがあった。
ほんのちょっとしたきっかけで始めてみたPLUSだが、確実に収穫がある。
それは「収入」と「客観的に自分の言葉を見る目」だ。
人は会話の中で正確な文法で話すことは少ない。何故なら、相手の表情や声色で、その行間や言葉の意味を無意識に補正し、そして理解できてしまうからだ。
しかし、文字にして表記することは違う。
表現を工夫したり、配置を入れ替えたり、短い文章のひとつひとつにも書き手が込めた「読み手への思いやり」がそこにはある。
それは今までの話し言葉とは明らかに次元の違う脳の使い方をしなければならず、私のような初心者にはかなり神経を使う作業だ。
「この書き出しはどうだろう。」
「この分はここと置き換えよう。」
「このテーマなら、やわらかな言葉がいい。」
そうした決して明確な答えの出ない自問自答を経て言葉を紡いでいく。
常に読み返し、読み手となって冷静に自分の文章と向き合う。表情や声色が伝わらない分、伝えたい要件はなにか、それはどのような構成であれば伝わるのか、読み手の立場となって文章を書くときは、そこに「私の目」は無い。
新聞やネットの記事、曲の歌詞から、これまで見えなかった世界が見えるきっかけにもなった。文章が脳の中で映像となって入ってくる。
少しこれは大袈裟な表現かもしれないが、私には事実そうなのだ。
言い換えれば、言葉とイメージの差がほとんどなくなるということだ。恥ずかしながら、これまで読書は専ら少年マンガだった私は活字が苦手だった。その理由は、頭に入ってこないからだ。字面だけを目でなぞる。ただそれだけだった。
そんな私は小説などは生理的に受け付けないタイプだった。自分で文章を書くことで、イメージと言葉を互換させる脳が、深い眠りから覚めたように思う。
きっかけは本当に些細なものだった。しかし、記事をひとつ書きふたつ書き、としているうちに、自分でもはっきりと自覚できる「成長」があった。
昔、中学の時の恩師が「人は成長し続けるために目ん玉が前に付いてんだ!」と言っていたのを思い出す。私も、自分を変える小さな一歩をずっと欲していた。
「ほんの少しだけ、前に進みたい。」僅かでもそう思うなら、やってみる価値は十分にある。
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